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木山神宮と地域を治めていた
木山氏と氏子の歴史について

南北朝内乱期の末期、永徳元年(1381)に木山幸蓮系の前木山氏の拠城である腰越城が攻略されたことで前木山氏は退去し、木山地域は室町幕府の兵糧所として阿蘇大宮司阿蘇惟村に預けられた。その時期より木山は北朝系の阿蘇大宮司の支配する地となった。
永享三年(1431)に阿蘇惟忠が阿蘇大宮司を継嗣することになって、嘉吉期から宝徳三年(1441-1451)ごろに、木山惟興が入部することになった。その入部に即応するかのように、文安五年(1448)二月十五日に新しい宮司として、矢田因幡寺惟郷は、阿蘇惟忠より木山宮六宮殿大明神の社職を命ぜられて就任することとなった。

木山宮六宮殿社の宮司矢田氏は、「木山宮矢田氏系図」(木山宮所蔵)によると、もと摂津国(兵庫県)矢田庄の出身で、のち氏吉の代に菊池経高のもとに下向して山鹿郡内志敷村に住居し、ついで吉郷の代に山鹿郡内夜家村を賜ったが、菊池氏の勢力の衰退にともなって北朝阿蘇氏に従うこととなって、北朝大宮司阿蘇惟忠の父、阿蘇惟郷の臣下となって、のち木山宮社職に任命された。この点から矢田惟郷を宮司に赴任させるに当たり、木山宮を従来の地域開拓神としての神社としてではなく、武士守護神とする目的があったのであろうか。そこで後の北朝系木山氏は、木山宮を氏神に位置付けたのである。文正二年(1466)には木山備後守(惟興)は、社領五町五反とし、この年に残分として、田地一町五反半、畠地一町五反の計三町余を寄進したのである。その社領地は、託磨郡平田(現寺迫の東隣りの字平田地域であろうか)の佐野坪・水町・野田の田地と、淵上・河原・下河原・接待田であった。これらの社領地について現今は不明であるが、かつて前木山氏が社領としたと推定される宮園で、生産力が高い地域であったろう。この宮園居屋敷地域は、のちに武家屋敷にしたようである。

さらに木山郷の郷社に位置付けて、木山郷の人々の宗教生活の中心に位置づけたのであろう。今日、木山神宮関係文献も、木山氏の文献も薩摩(鹿児島県)島津軍の木山氏攻略の火と、江戸時代の寛保二年(1742)の木山町の大火にて焼失し残されていないために、どのように木山氏が祭祀権を左右していたかは不明であるが、のち寺迫の「城ノ本」に木山城が築城されると、迫谷を距だて西の真正面に木山宮があった。また木山氏の居館の位置から推定すると、その屋敷のすぐ南に木山宮が接するというものであった。また由緒によると、江戸時代の寛永年中(1624-1643)の十七世紀中ごろまで、流鏑馬(やぶさめ)が毎年祭礼日に行われるようになった。その馬場は、現在の地名の呼び方で「ドジョババ」といわれるところで、木山宮の南下で、旧木山川のすぐ北側にあって、東西に約500メートルあったと伝えられ、さらに神事の能も行われていた。武神として木山宮を位置付けるとともに、木山宮に対する郷民の信仰を通じて、郷=惣の共同体意識を高めようとする政策であったのだろう。

戦国時代になって、天文年間(1532-1554)に木山氏が赤井方面を所領とすると、赤井の小丘山に所在していたと推定される観音堂を移して、ここに赤井城を造築したが、そこに木山宮から神を分神し、「二ノ宮」=現在名、本丸日枝神社を勧請した。今日、木山宮より赤井の本丸日枝神社へ二十年に一度の遷宮の御幸式を斎行しているが、これは木山氏の政策によって出現した御幸行事であろう。木山郷の郷社として、郷民の信仰心を結集させる御幸であったのだろう。
歌女達は、『女男の神、大八洲を産みまして、土も固まる海も澄む、女男の神国地の君を産まんとて、真の心あるにより、山高く初て真栄の生えにけり、常磐堅磐の真榊の・・・』と静かなる歩みに合わせて歌って御幸する。町をあげて氏子総出の祭り、先祓い、切麻・散米、うずめ、歌女、奴、道楽、稚児、神輿、神職、雅楽を奏でて古式にならい赤井の社へと御幸する。

一方、木山氏が次第に発展して所領を拡大し、木山から以西地域の赤井村・福原村を所領に収めると、それに応じて、木山宮の氏子の村々と末社も拡大していった。江戸時代末の文政六年(1823)の「寺社本末間数改帳」によると、木山の天神社・恵比寿社、安永村の権現社・山王社・金的大明神・妙見社、馬水村の若宮社・天神社・権現社、福富村の妙見社、広崎村の神倉社・権現社、惣領村の末神社、福原村の権現社・若宮社、迫村の年神社・天神社、赤井村の二宮社、山王社の十九社が末社であると記述ある。

しかるに、天正十三年の島津氏の木山氏攻略の時に、木山宮も焼失することとなって、その時に御神体を焼失し、また宝物・文書も焼失することとなった。その時、御神体六体のうちの一体は煙の中を逃れて、迫村の大森まで飛んで避難したと伝えられ、そこを今吉と名付けたという伝説が残されている。おそらく今吉氏は御神体を救い遷座したもので、木山宮の祝(はふり)であり、中世期の「地神」の時代からの祭祀者であったと思われる。

その後は、島津氏は薩摩にて様々な災いに遭ったとされ、焼失した御神体五体と社殿を再建して謝したとされていて、それが熊本地震前の社殿といわれている。

木山神宮では平成二十八年発災の熊本地震によって神殿が全壊するという未曽有の災害を受け、江戸時代建立とされる神殿は当初材を可能な限り使用して再建する事業を現在進めております。この事業において専門的な調査も同時にすすめており、新しい益城町の歴史がここから始まります。